マインドフルネスとは? (想念観察)
マインドフルネスとは、今、この瞬間に
自分が置かれた状況、流れている思考と感情そして行動を
リアルタイムに、
価値判断なく、
客観的に観察する(気づいている、意識する)ことです。
マインドフルネスでいると些細なことでは動じない自分になれます。
はじめに
もしもあなたが、
□過去の失敗にとらわれて後悔し、前向きに考えられない
□同じ失敗を繰り返す
□取り越し苦労ばかりして疲れてしまう
□すぐに感情的になって損ばかりしてしまう
□ストレスに弱く、ささいなことで落ち込んでしまう
□人の顔色ばかり見て疲れてしまう
□わかってはいるけどできない(やめられない)
などの"心のくせ"で困っているなら、
その原因のひとつは想念観察できていないことです
想念観察とは
今、この瞬間に
自分が置かれた状況
自分の中を流れている思考と感情、
そして自分の行動に
リアルタイムで気づき、客観的に観察することです。
また、想念観察する能力を想念観察能力と呼びます
なお、この本では想念観察できていることを以下のようにも表現します
"気づいている""意識する""観察する""覚醒している""目覚めている"
これらの言葉は特に説明していなくても"想念観察"のことをさしています
逆に想念観察できていないときを
"上の空""無自覚""ぼうっとしている""眠りこけている""無意識"などと表現します
「自分が考えていることや感じていることぐらい、いつだって気づいているよ」
「自分が考えていることに気づかないなんてそんな間抜けがいるのか?」
そんな声が聞こえてきそうですね。
でも、人は意外と自分自身の思考や感情には気づいていないものです。
たとえば、こんなことはありませんか?
「感動的な映画に没頭し、涙がでた。
映画が終わって明かりがついた瞬間、
今、自分が映画館にいて映画を見ていたことを思い出した」
「激怒して声を荒げ、こぶしを振り上げたところでわれに返った」
「テスト勉強の休憩に10分だけのつもりでゲームをはじめた。
いつのまにかゲームに没頭してしまい、気づいたときには何時間もたっていた」
「ぼうっと考え事をしていて、
急に彼女から、『ねえ、聞いているの!』といわれてわれに返った」
「ふと気づくといつも同じことを考えている
たいていは、あんなこと言わなきゃよかったと過去を悔やんでいるか
彼女は許してくれるだろうかと未来を心配しているかだ」
もしも「われに返り」、「ふと気づいた」としたら
われに返る一瞬前まで、ふと気づく一瞬前まで
私たちは私たちが置かれた状況や、
私たち自身の思考、感情には気づいていなかったのではないでしょうか?
"うわのそら(無自覚)"だったのではないでしょうか?
私たちは"うわのそら"であるときは、たいてい
何かに没頭しているか(ゲーム、映画、考えごと)
感情に支配されているか(怒り、不安、欲など)です
感動的な映画にわれを忘れて没頭するのはかまいません
ゲームに夢中になったり、自分にとって無害なことをぼうっと考えていたりしても
それは時間の無駄ではありますが、たいして害はないでしょう
しかし、後悔や怒りなど、
自分にとって害のある考えや感情に浸っていたとしたら大問題です
一刻も早く"我に返ら"ねばなりません
そのためには想念観察能力を開発することです
想念観察能力はIQと違ってトレーニングで向上します
この本では想念観察能力をいかに開発し、
トレーニングしていくかについても解説します
想念観察についてまだぴんと来ない人のために
別の角度から説明してみます
今、あなたの右手はどこにありますか?
この本を持っています?
それとも本はテーブルの上においていて腕を組んでいます?
足はどこに?
組んでいます?
それともいらいらして貧乏ゆすりでもしていますか?
姿勢はどうです?
猫背になっていませんか?
私はぼうっとしていると、よく猫背になっています。
「ほら、猫背になっているよ」と指摘されて我に返ります
手や足や姿勢のことを話題に出されるまでは、
そんなこと気にもしていなかったのではないですか?
つまり、手や足や姿勢のことには気づいていなかったと思います。
ここで深呼吸を一回してください。
私に深呼吸と言われるまで、呼吸のことは気づいていなかったでしょう?
えっ?心と体は別ですか?
体のことに気づけなくても心に気づけないなんてことはないって?
自分の心に気づいているのは体に気づいているよりももっと難しいんです。
何かに気づく(観察する)というとき、
気づく主体は「心」であり、
気づかれる客体は「心とは別の何か」です。
別のものだから客観的に見て気づいたり観察したりすることができるのです。
ところが、自分自身の「感情」や「思考」に気づいているという状態は、
気づくほうも気づかれるほうもともに同じ「心」です。
ちょっと考えてみると自分の心に気づいているなんて当たり前のようでいて
実はとても難しいことです
心が心に気づくってどういうことでしょう?
そんなことが可能なのでしょうか?
「自分を客観的に見る」
「一歩はなれて冷静に見る」
自分自身の心を、
心とは別の何かのように観察するなんてことができるのでしょうか?
目の前にある物体、
たとえば鉛筆や時計、コップなどを客観的に見ることは簡単です。
自分の外にあるものだからです。
自分の手や足、呼吸ならばまだ客観的に見ることもできそうです。
じっと自分の手を見て、
「ああ、しわが増えたな」とか
「力強い手だ!」などと感想を述べることもできますね。
自分の一部だけれど、それを見ている「心」とは切り離して見ることができるからです。
しかし、心が心をみるのはちょっと事情が違います。
観察する(気づく、意識する、観察する、観る)というときには
観察する主体と観察される客体は分かれている必要があります。
だから客観的でいられるのです。
上映が終わって明るくなった映画館で、ふと、われに返ったとしたら、
その直前には自分自身が今どこにいて何を感じ、考えているかには気づけていません。
そして、われに返った瞬間には、
自分自身のおかれた状況や思考、感情に一瞬ですが気づきました。
怒りに任せて振り上げたこぶしに気づいた瞬間、
テスト前なのに何時間もゲームに没頭していたことに気づいた瞬間、
「聞いているの?」と問い詰められた瞬間に私たちは我に返り
その一瞬は想念観察できています
くよくよ後悔していることや
起こるかどうかもわからない未来のことを思い悩んでいることにふと気づいたとき
想念観察ができた瞬間です
その一瞬前までは
映画という状況、
怒りという感情、
ゲームという状況、
考え事という思考
後悔や取り越し苦労という思考に巻き込まれ、とらわれていました。
しかし想念観察できたこの瞬間は、
自分自身のおかれた状況、思考、感情などに光が当たり、観察できています。
自分自身がおかれた状況、感情、思考から一歩はなれて
それを客観視することができています。
観察する(気づく、意識する、観る)には、
観察するものと観察されるものが必要です。
同じ次元にいたら心は心自身を観察できません。
そのために「心」はいったん「心」より高次の段階に上がらなくてはなりません。
想念観察とは
超越した、一段高いところから客観的に自分自身の心を見つめることです。
自分自身のおかれた状況、思考、感情を
一段高いところから客観的に見ることができたときに、想念観察できたといいます。
また、想念観察することができる能力を想念観察能力と呼びます。
さて、映画館の例に戻ります。
映画に没頭し、涙している自分
そこに気づきが入り、一瞬われに返る
この一瞬は想念観察ができていますが・・・
「やばい!涙がでてる!このまま外に出たら恥ずかしいぞ!!」と考えたとしたら?
その思考自体は想念観察ではありません。
それは単なる思考であり、
あせりとか狼狽という感情に巻き込まれ、とらわれているだけです。
「ほう、○×△夫(自分のことです♪)は、
このままだと泣いていることがばれて恥ずかしいと思ってあわてているな」
と客観的に自分を観察することができていたら、それは想念観察です。
「映画を見たぐらいでなくなんて、俺って女々しいやつだ」
と自己批判することは想念観察ではありません。
それは観察される対象である思考(自己嫌悪)です。
「自己嫌悪しているな」と観察できればそれは想念観察です。
「自分は映画を見ると泣く傾向がある。
それは過去のトラウマや経験によって引き起こされたものかもしれない」
と自己分析することは想念観察ではありません。
それは観察される対象である思考(分析)です。
「自分は今、この瞬間に自己分析をしているな」と観察できればそれは想念観察です。
その違いがわかりますか?
さて、あなたはここまで読んで何を考えました?
「何を言っているのかわからない」
「変なことを言っている」
「だまされないぞ!」
「確かにそうだ」
「面白くない本だな」
「おや、おもしろそうだ」
「それがいったい何の役に立つんだ??」
いろいろな思考が流れていることと思います。
驚き、興奮、怒り、がっかり、たいくつ、期待
いろいろな感情が渦巻いています。
それらの思考や感情に気づいていましたか?
想念観察できていましたか?
さて、あなたの問いに答えましょう。
「それがいったい何の役に立つんだ??」
はい。とても役に立ちます。
もしもあなたが、
□過去の失敗にとらわれて後悔し、前向きに考えられない
□同じ失敗を繰り返す
□取り越し苦労ばかりして疲れてしまう
□すぐに感情的になって損ばかりしてしまう
□ストレスに弱く、ささいなことで落ち込んでしまう
□人の顔色ばかり見て疲れてしまう
□わかってはいるけどできない(やめられない)
などの"心のくせ"で困っているなら、その癖を解決できます。
つまり、
□過去の失敗を成長のチャンスと前向きに考えられる
□失敗から学んで成長する
□将来の不安をふまえて、今ここでできることに集中できる
□怒りや悲しみにとらわれずに前向きに行動できる (注1)
□プレッシャーを成長の糧にできる
□自分の欲求と人の要望のバランスを考え、合理的に判断できる
□自分にとってよいこと、悪いことを冷静に考え、選択できる
そして最終的には執着から開放され、悟りを開くことができるかもしれません!
「悟りなんて大げさな!」ですって?
お釈迦様もキリストも想念観察の達人でした。
これも想念観察だ♪ 歴史上の偉人や文学作品にも登場!
1、ヒカルの碁−伊角慎一郎(いすみ しんいちろう)
ヒカルの碁 (16) (ジャンプ・コミックス)
ほった ゆみ, 小畑 健, 梅沢 由香里
楊海「おいおい!そこまでプレッシャー感じてるわけ?伊角君変わってないな!」
伊角「変わりましたよ。そんなプレッシャーを感じている自分を第三者のように見つめるんです。そんなもう一人の自分を心の中に作れば・・・ゆっくり落ち着いていきます」
プレッシャーに弱いと言う弱点を持つ伊角慎一郎は囲碁のプロを目指す院生
プロ試験で主人公のヒカルとの勝負の最中に反則で負け、
そのショックを引きずってしまいプロ試験に落ちてしまう
失意の伊角は立ち直れずに院生をやめて心機一転中国へ
中国ではプロ棋士の楊海の部屋に居候させてもらい
強豪たちと対戦するがやはり勝てない
ついには小学生のような楽平(レエピン)にまけてさらに落ち込む
そして楊海のはからいで再起をかけて楽平との再選に挑む
対戦の直前、もしも負けたらお世話になった滞在している楊海の部屋にもいづらくなり、惨めな気持ちで日本に帰らざるを得ないという事情を楊海に話す場面だ。
プレッシャーに弱いうえに言葉が通じないという環境の中、
伊角君が自分の弱点を克服する上で武器になったのはメタ認知です
準備中
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